樹木はかせ とシダまみれ

樹木ブナのモデル立ち

7月に樹木ガイドの三浦夕昇さんと上北山村の「和佐又山」を散策した◎
”樹木はかせ”である夕昇さんとの出会いは、青森県にある奥入瀬渓流の自然散策ガイド団体「おいけん」さんでのイベントでした。

彼は、18歳であるという認識がぶっとぶほどの知識量をもち、ブログも超おもしろい。幼いころ、街路樹の名札を読むことから興味関心が始まり、自宅近所の庭師さんを師匠につぎつぎと樹木たちの名前を覚えたそうだ。
 この日は贅沢に、私ひとりにガイドを付けてもらうことに。ひとりではもったいない!そう思ってしまうほど、みなさんに夕昇さんと出会ってもらいたい。

 夕昇さんの樹木観察スタイルは独特だ。専用シートを根っこのそばにサッとひろげて寝っ転がって写真を撮る。位置をズラして、またカメラを向けている。「あれ?どこいった?」地面と同化して分からない。ガサっと音がして振り向くと、すくッと立ち上がった彼がいて、目を輝かせながら「すみません、おまたせして」と駆け寄ってくる。「まったく気にしないでよ!マイペースにいこ〜」と言う私も、よいシダたちを見つけると、しつこく撮り続けるので、夕昇くんの気持ちがとてもわかる。「いましかない」という衝動に駆られるのだ。目の前の彼らと、太陽の光の重なりは一瞬で、二度とない。何回もシャッターを押し、記録に焼き付けたいのだ。そして同行者の存在を忘れ、居場所も分からなくなる、。

あ、いたいた!はかせ!

 この日、夕昇くんは「ヒメシャラ」の巨樹の多さに感動していた。ヒメシャラは太平洋側の気候・植生であることを示すそうだ。樹皮は赤みのある茶色で、ベージュのような斑点が合わさり、スイスの画家パウル・クレーの暖い色づかいのようで美しい。

ヒメシャラが先か、クレーが先か。

他にも、さまざまな樹木のことを教えてもらった。

ブナ
1本立ちでスラ〜っとスマート。枯葉が重なって層になって保水している土が好き。材木屋としては形がゆがみやすく、役に立たないので”ぶん投げて”捨てるということで、伐採がすすんでしまったとか。
スラ〜っとしたブナ
イヌブナ
ブナに似ているが、”ひこばえ”した株立ちで、樹皮にはイボ状のブツブツが。
イヌブナ撮影中
キハダ
葉はミカンの匂い。縦に線が入りコルク質の樹皮で、めくると黄色い。
リョウブ
新芽は食べられる。枝先に葉が集まっている。
ミズメ
樹皮に横向きの線。葉はサリチル酸メチルで湿布のにおいがする。
サワグルミ
涼しい山地の沢沿いや渓谷、地下に水脈がある。
サワグルミは黒みのある樹皮と葉っぱが特徴的
ヤマグルマ
とても珍しい木!常緑広葉樹だけど、針葉樹と同じく仮道管で水を吸い上げる。岩上や尾根など、空気の動きのある場所を好み、イワイタチシダも同じ場所に生えやすい。
ヤマグルマの葉

しかし、とても残念なのが、林床にほとんど低木や草が生えていないことだ。和佐又山でも鹿の食害がこんなにひどいとは。山が雨水を保水することができないので、木々たちもしんどそうだ。鹿の食害はどこの山を歩いても感じる。もともと鹿は”平原”に住む動物だ。人口が減った現代、一部の耕作放棄地を鹿に返上してもよいのではないかと思うのは私だけだろうか。

なんにも生えてない林床。落ち葉も流されて堆積できず、保水力も低下する。

 さて、木々やシダに立ち止まり、歩くペースがずいぶん遅くて心配したけれど、お昼前には和佐又山の頂上に到着できた。そして、昼食時のおしゃべりはとても楽しかった。
 大きな樹つまり巨樹が好きな人には、”スポーツ型”の巨樹マニアの方々がいるそうだ。巨樹とは、地上高1.3mの位置で幹周囲3.0m以上の樹木のことを指す。彼らは樹幹が太ければ太いほど喜び、常に太さや高さを測り、競って楽しむ。「それはそれで、自然に親しむ方法としてありだと思う」と夕昇さんは言うが、「でも、僕は立ち姿や枝葉の伸ばし方、木そのものの美しさを感じることが楽しいし、それを大切にしたい」と話してくれた。夕昇さんはその場所に生えつづけている木の命や生き方を尊み、敬意を払っているのだ。そして、ありのままを撮影しようとしている。私もシダたちの群生をみつけると同じようなことを思っている。植物たちがそこで生きていることを肌で感じる。

和佐又山、山頂の巨大な倒木。石化したように固い。

 こんな話題も。「人間は植物をどこまで細かく分類するんでしょうか。突き詰めるとどんなゴールが?」という内容。これが印象に残り、帰宅後もいろいろ思考をめぐらせることになった。
 正直、私もマニアックなシダ植物は、細かい部分を観察しなければならず、とてもめんどくさくて苦手だ。それが楽しいのに・・!と言う人もいるだろう。慣れもあるだろうが、私はかなりの時間を要するので負担に感じる。
 そもそも、小さな特徴の差(毛があるか?切れ目(裂けぐあい)は?鱗片は?)をルーペで観察して、これはAではなくて、A’である!と細かく分類していくことに、どういう意味があるのか?ということ。植物観察を趣味とする人でも、きっとギモンに思うのではないだろうか。さらに、いま世界中で、植物たちをDNAレベルで分類し直すことが進んでいる。塩基配列をたどり、見た目の形質では似ていても全く違う種類だったり、その逆だったりする。今まで〇〇科であったものが、△△科に改められていたりする。まるで家系図を書き直すように、生命の進化を辿る大きな発見であり、興味深い。そして植物、さらに地球の歴史が明らかになるのなら、私もワクワクする。なぜそのような特徴・進化になったのか、理由やストーリーに興味があるから。
 植物の知識収集は人それぞれ、満足のいくようにすればいいが、ただ名詞を並べ直した分類に終わらせたり、コレクションして披露するだけでは、至極つまらない。(私たち研究結果の受取手の問題もあるが)
 私はしだのすみかに来てくれた人たちにマニアックな分類の話をしないし、できない。植物のなかでもマイナーであるシダは、花も咲かず目立たないし、「ただの緑」として認識されて終わることがほとんどだ。はじめからハードルが高いところ、ややこしい説明で頭を混乱させてしまい、苦手意識が生まれ、興味関心が遠のいてしまっては、元も子もないからだ。
 もちろん、名前が大切であることは分かっている。名前が分かると存在を認知し、少し愛おしく思えるようになる。ガイドでは、ちょうど良い塩梅をいつも探している。シダ植物 or 非シダ植物 を感覚的にとらえてくれるようになったら万々歳、という姿勢だ。よく見かけるシダ植物の名前とストーリーを知ったことをきっかけに、自然に親しんでもらい、私はシダ植物が好きだけどあなたは何が好き?と投げかけることができたら、それで十分だ。(もちろん、マニアックなややこしいことを平易な言葉で翻訳することが私の役目とも考えられるので、ぼちぼちガンバリマス)

 師匠曰く「植物を分類する目的は食べられるか否かを判断するために始まったこと」だと。植物を知ることは、もっと気軽で単純なこと。シダは美しい!と直感で楽しめる場を私は作っていきたい(私はシダを食べないし)。
 ポ○モンカードを収集するように、シダたちを人間の自己満足のためのコレクションに留めていては、ただの消費だ。シダたちに申し訳ない。
 シダにまみるおさんぽは、みんなでシダに塗れることを大切にしていこう。シダたちから感じたワクワクをその場で共有する臨場感を大切にしたい。どうせ名前は忘れるだろうし、それならばいっそ、シダ植物の観察は楽しかった!という思い出だけでも残ってほしい。染み込むシダを目指す。

「森に入ると、必ず新しいことを発見しますよね〜」と、この日に出会った樹木たちを振り返って夕昇さんが言ってくれた。”新しいこと”とは、木々やシダ植物のことだったり、上記のように、私自身の中に新しくみつけることだったりする。森は面白い。いつまでもこんなふうに自然のなかで学びながら生きる世界であってほしい。

夕昇さんは今年の秋頃から大学入学のために海外へ行ってしまう。帰国したときに、また吉野へ遊びにきてほしいし、そのときは何か一緒にイベントをできるとうれしいなあ。それまで私ももっと自然にどっぷりと浸かろう。

三浦夕昇さんのブログはnoteで公開中。木々のことをゆるくおもしろく勉強できますよ◎きっと留学先での樹木たちのことを共有してくれるだろう。とても楽しみだ。

夕昇スタイル

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